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2008年09月29日

酒樽(さかだる)の引札

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「引札(ひきふだ)」とは現代でいうところのチラシです。
今だったら、チラシは直ぐに捨てられる運命にありますが、
江戸期には木版、明治から大正期には石版で刷られた楽しい印刷物なので、
宣伝用のチラシですけれど、図柄も美しく、綺麗に保存されていることが多く、
コレクションしている人も大勢います。
写真は引札の定番登場人物、恵比寿大黒が四斗の酒樽(さかだる)に菰(こも)を巻いている図です。

本来、引札には無印のものが幾種類もあり、各商店主は印刷屋が示す図柄から好みの物を選び、
自分の店の名前や商品の名称を刷ってもらい、顧客に無料で配ったものです。
ですから、見本のために作られた屋号のない無印の引札も多数、現存しております。

酒樽(さかだる)が図柄に選ばれるほど、木樽(たる)が当時の生活に密着していた証拠です。

2009年03月29日

江戸時代の酒樽屋 実は桶屋なのです

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葛飾北斎(かつしか・ほくさい)の「尾州不二見原」です。

切手になったり、酒のラベルになったりしていて、たいそう有名な木版画ですね。
北斎は
1760(宝暦10年) 9月江戸本所に生る。
1778(安永7年) 19歳、勝川春章に師事、春朗と号す。黄表紙の挿絵、役者絵を描く。
1780-1800(天明・寛政のころ) 歌川豊春、司馬江漢の影響を受ける。
1810(文化9年) 『北斎漫画」の出版始まる。嘉永2年(1849)まで続き、13編で一旦完結。
1819(文政2年) 「たるや竹十」創業
1823(文政6年) 『富嶽三十六景』を描きはじめる。
1834(天保5年) 『富嶽百景』を描きはじめる。
1849(嘉永2年) 4月没、享年90歳、総作品は3万枚を超える。
結局『富嶽百景』は完結せず。

「富嶽三十六景」は36枚のように思われますが、実際は四十六枚。
富士山を中心に、それまで誰も考なかった斬新な手法を取り入れ、色調と構図も独特の大傑作であり、北斎五十年間の画業は、ここに凝縮されていると言えるでしょう。

因に、ここで桶屋が使っている道具を職人は「イレギワ」又は「ヤリガンナ」と呼んでおります。
桶の内側の段差を整える為の道具で、樽屋が使う「つっこぼり」と似た目的のものです。

左側に竹タガや銑(せん)等の道具や道具箱、右側に木槌が何本か見えます。
側を補修して、輪替えをしている図かも知れませんが、
一人で作業出来る大きさではありません。
あるべき筈の底も見当たりませんし、第一にこんな変形の桶をいったい何に使うのでしょう。

野暮なことを書き連ねてはいけません。これは「絵」なのです。
すべて、奇才北斎による想像上の風景なのでしょう。

北斎晩年のスポンサー高井鴻山で話題の長野にある桝一市村酒造場の十二代目らしく、下って十六代当主が北斎館を設立しているのも何かの縁でしょう。

2009年05月20日

樽屋の好きなレースでイタリア中がピンク色に染まる

2009_giro_d_italia_stage10_danilo_di_luca_maglia_rosa_lpr_brakes_attacks.jpgcyclingfansより

ここでリアルタイムに近い時間に観戦する事が出来ます。

各ステージの優勝者のみ「Maglia Rosa」というピンク色のジャージを着る事が出来ます。


2009年06月28日

明治初年の樽屋(たるや)竹十付近

1900_kura.jpg写真「沢の鶴資料館」提供

先の大戦までは、樽屋竹十の前は浜辺でした。
味泥から今津までの灘五郷全域が海に面しておりました。
ここから、樽に詰めた酒を江戸へ運び、江戸からは上方では不足している物を積んで戻っていました。
樽(タル)の材料になる吉野杉の原木も、この浜に着きました。
この広い浜辺を利用して、吉野杉を酒樽に使い易い樽丸に加工していたものです。

なによりも樽屋や作り酒屋にとって、この浜辺は格好の作業場だったのです。
蔵元も今頃の時期は酒造りに欠かせない大桶を丁寧に洗って何本も並べて乾かしておりました。
つい最近までの光景です。

2009年09月05日

木樽製造における困難

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木樽の側がタガの圧力に負け、バランスを崩して割れてしまった訳です。
このようになった状態と、そのような樽を「どさ」と呼びます。

『どさ』とは佐渡(さど)の倒置語で、江戸時代、賭博で捕まると佐渡へ島流しになったことから、賭場に役人が踏み込むことを『どさ』と呼びました。
一旦島流しになるとなかなか戻ることは出来なかったといいます。

また、復元不能という意味から『土左衛門』の略という説もあります。
実際には底等を替えれば復元は可能ですけれど、「修理」という作業は
何に於いて同じですが、新品を作る作業の倍以上の時間と労力を要します。

樽を作っている者から言わせると、本当に「どさっ」という感覚で壊れるので、
この方が現実的です。

2011年01月05日

吉野杉と灘の酒樽についての雑誌が復刊

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宮本常一氏監修になる、近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所刊行
「あるくみるきく」の210号です。

特集「吉野の木霊」吉野の林業について詳細に、別の250号では、
そこから派生して灘の樽つくりとの関係について、しっかりしたフィールドワークで記述されています。
この冊子は昭和42年〜昭和63年まで全263巻刊行、ほぼ一号一特集に編集されていました。
この2冊は小冊子ゆえ、古書としての入手が困難で岐阜の図書館でのコピーを考えていた矢先、
増補改訂版として復刻されました。元版にない写真も出ていますが、間違いが訂正されていない部分も多々見られます。取材した方が亡くなっていたりするので仕方がありません。
さるにても、このような冊子を再編集して全25巻になり刊行される事は喜ばしい事です。

2013年10月10日

出張酒樽屋(さかだるや)またの名を輪替屋(わがえや)

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古い話ばかりで恐縮ですが、昭和40年代前半頃まで各町角村に「輪替屋」がやって来た物です。各家には必ず盥(たらい)、半切り(はんぎり)、お櫃(ひつ)、風呂桶、漬物樽(つけものたる)、味噌樽(みそたる)等々の木製品があふれていて、その修理に追われていたものです。
同時期には「鋳掛屋(いかけや)」という鍋や釜など金属製品の修理を生業とする業者をどの町でも見かけたものです。
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石油製品が席巻し、使い捨てが美徳と勘違いされる時代が来るまで町には職人が大勢いました。
写真は明治後期とおもわれる「輪替屋(わがえや)」とその丁稚(でっち)です。
キャプションには「A Cooper」とあり、これも当時流行していた着色絵葉書屋の勘違いでしょう。
牧場主の息子と言われているゲーリー・クーパーの英国での祖先は樽屋(たるや)だったのかも知れません。

画像は共に記載はありませんが、F.ベアトの弟子日下部金兵衞の撮影によるものと思われます。
町の風俗を歩きながら撮影したのではなく、道具や背景を用意して写真館で撮ったとおもわれます。また、絵葉書に於いて撮影者を特定する事は金兵衞以外には今でも稀でしょう。
金兵衞が横浜で写真館を営んでいたのは有名ですが、最晩年92歳で死去するまで芦屋の上宮川町の知人宅に寄寓していた事は余り知られておりません。
画像は神戸市立博物館所蔵のカタログより(輪替屋の絵葉書は金兵衞作と特定されておらず)

2013年11月25日

かつて酒樽屋(たるや)だった企業三社

明治末期まで近畿だけで数百軒あった酒樽屋も日露戦争の後,一升瓶の出現と相まって激減、その後昭和40年頃に石油製品の普及により木桶と共に減少。
全国のかなりの樽屋は酒樽製造から一升瓶用の木函製造に移行。更には木函はプラスチック函になり、近年の紙パックの出現、その上ペットボトルや減菌レトルトパックまで登場。
清酒自体の需要縮小もあって、酒樽は「伝統」という名の下、酒文化の象徴として残るしか道はないのか.........................
現在阪神間に酒樽屋は4軒、全国でも10軒程度のみ。当然樽職人の数も推して知るべし。

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樽谷包装産業は江戸時代は樽屋だった筈で,その後一升瓶の木函製造から現在はパレットや段ボールなどの製造へ。ご子息とは奇遇で昔、私と同じアパート隣室の住人だったことも。

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京都容器光陽は元の名を「京都容器」という樽屋で、祖父同士が親友。
奈良の「吉野容器」と共に一時、大規模に樽製造業を営む。
現在は、やはり梱包資材やパレット製造。灘の酒蔵へも多数納品。

imgres.jpg写真は同氏のBlogより

特殊容器製造へ転換した樽徳商店の会長宮本博司さん自作の樽
同氏の木樽への思いは殊のほか深し。
たるや竹十にも来訪、吉野郡川上村まで吉野杉を仕入れに行かれた。
同氏は専門が土木工学、元国交省の役人を勤め全国のダム建築に関わった由。

上の三社は時代の流れに逆らうことなく益々発展して行く中、たるや竹十は今も変わらずコツコツと樽(たる)を作り続けております。

2015年02月24日

空樽(あきたる)と明樽(あきだる)

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一度、酒樽(さかだる)として使った樽(たる)を称して「いちあきだる」又は単に「あきだる」といいます。
二回目は「にあき」とも言いました。さすがに「さんあき」はありません。
何十年と「空樽」と漢字で書くものと思い込んでおりましたら、
字面が悪いのか江戸時代から明治期には「明樽」と書いていたようです。
両方の書き方があったらしく、ともかく江戸に数十軒あった「明樽問屋」は
「あきだる」を二番手の蔵元や醤油屋へ売っていた由。
『江戸買物獨案内』文政七年(1824年)刊より

たるや 竹十

  • たるや 竹十



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