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書物 アーカイブ

2006年03月25日

樽屋 かわほり堂に行く


東京神田猿楽町にある、謎の古書店「かわほり堂」に行って来ました。
初めての人は探しにくい所にあります。そして、たいそう入りにくく、その上、土曜日だけしか開いていません。開店から数年なのに、見事に江戸漢詩の和本と花柳文学の書物が充実していました。
入り口の蝙蝠の絵は金子國義さんによるものです。

親方は鏡花本を二冊、樽屋の女房はピカソ挿画の「変身譚」を購うことになりました。

  
 

 

2006年04月02日

樽屋 谷崎潤一郎旧宅「お伽噺の家」に行く

大谷崎は関東大震災から逃れ、京都を経て、大正十三年春、神戸に初めて総面積300坪のT氏の家を借りました。

当時は西側にあった二階建てのクリスマスケーキのような母屋の洋館から神戸港が一望出来たことでしょう。その母屋は既に人手に渡り、書斎として使われていた、この小さな別棟だけが阪神大震災にも耐え、数少ない神戸に残る大谷崎の旧居でした。

平成十一年に借家人K氏が出てから空き家になり、残念ながら、この度所有者の意向で解体が決定した為、支援団体が借り受け、四月一日と二日の二日間、内部を一般公開したのです。

樽屋も梅見がてらに家族で見学に行ってきました。

住みやすいようにK氏が改装したので、元の面影は全くありません。
平凡な安普請の平屋です。
でも前庭(実際は空地)だけは、たっぷりあります。井戸もありました。
大谷崎もこの井戸で釣瓶桶を使って水を汲んでいたのでしょうか。


見なかったら後悔するけれど、見たらがっかりするといった「物件」です。
何度もこの前を通ったことはありましたが、奥まっている上に五段の階段の上に建つ凡庸な家なので、『北畑戸政の家』として存在は知ってはいても今まで見つける事が出来ませんでした。

『痴人の愛』は、舞台となった、この「お伽噺の家」と奈良ホテルで執筆されたのです。


解体は七月の予定ですから、外部は未だしばらく見ることが出来ます。
神戸市東灘区本山北町3-9-11 本山第一小学校東隣 
谷崎年譜で、北畑戸政249の1と表記されている建物です。 


当時のままかどうか分かりませんが「赤い屋根」です。それもスレートの。

「マッチの箱のやうに白い壁で包んだ外側」

「ところヾに切ってある長方形のガラス窓」

 

「正面のポーチの前に、庭といふよりは寧ろちょっとした空地がある」

 
大正14年7月 改造社刊

2006年04月25日

書を捨てよ、空へ登ろう

東京の高層ビル、新宿パークタワーの最上階(52階)から外を覗くと、もっと空に近い所で作業している人を見つけました。
パークハイハット東京の「ニューヨーク グリル」から更に上の鉄筋の上です。
樽屋の親方としては何の作業をしているのか気になって仕方がなかったのですが、声をかける事は出来ませんでした。
僕も高い所が好きで、学生時代に鳶職のアルバイトをしていた事がありますが、ここまで高い所には登れません。

22年前に死んだ天才、寺山修司の「書を捨てよ、町に出よう」(1967年刊)は翌年、カルメン・マキの主演によって新宿厚生年金会館で上演されました。

彼の遺作「さらば箱舟」の最後の台詞が壮絶です。     

 「百年たったら帰っておいで」

2008年03月07日

酒樽屋 贔屓の詩人の誕生日

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ロベール ド モンテスキュウ伯爵が1855年に生まれた日。

「さかしま」の舞台になったと言われる、モンテスキュウが住んでいたQuai d'Orsayの館を訪ねた時の写真です。

現在は館の半分が中国文化センターのような物になっていました。
他の彼の旧居と違い、当時の面影が微かに残っています。
残り半分はパリ市所有。

2008年11月12日

酒樽屋の恩人古書店主死す

酒樽屋が十代の頃から、お世話になっていた大阪の古書店「浪速書林」の主人梶原正弘氏が昨日、急逝されました。
葬儀は明日13日正午、大阪府池田市新町1−16
弘誓寺(ぐぜいじ)
酒樽とは何の関係もありませんが、ご専門の近代文学とは縁のない酒樽関係の資料蒐集に随分協力して下さいました。

ご冥福をお祈り致します。

2009年06月17日

酒樽屋 短編小説「セメント樽の中の手紙」を読む

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葉山嘉樹の超短編小説なので、全文を紹介します。

蟹工船」のリバイバルに連動しているのか、こちらも新刊の文庫で読む事が出来ます。
葉山嘉樹は実際にセメント工場で働いていた事があるそうです。


ちょっと昔まで、セメントや釘など、何でも樽(たる)に入れて輸送しておりました。
樽屋竹十が作る樽(たる)とは全く違う洋樽(たる)で、材料も雑木を使っていました。
いまでは、この種の樽(たる)を使うのは珈琲豆屋さん位です。

『セメント樽の中の手紙』大正15年(1925年)作。


 松戸與三はセメントあけをやってゐた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽はれていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鐵筋コンクリートのやうに、鼻毛をしゃちこばらせてゐる、コンクリートを除りたかったのだが一分間に十才ずつ吐き出す、コンクリートミキサーに、間に合はせるためには、とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった。

 彼は鼻の穴を氣にしながら遂々十一時間、――その間に晝飯と三時休みと二度だけ休みがあったんだが、晝の時は腹の空いてる為めに、も一つはミキサーを掃除してゐて暇がなかったため、遂々鼻にまで手が届かなかった――の間、鼻を掃除しなかった。彼の鼻は石膏細工の鼻のやうに硬化したやうだった。

 彼が仕舞時分に、ヘトヘトになった手で移した、セメントの樽(たる)から小さな木の箱が出た。

「何だろう?」と彼はちょっと不審に思ったが、そんなものに構っては居られなかった。彼はシャヴルで、セメン桝にセメントを量り込んだ。そして桝から舟へセメントを空けると又すぐその樽を空けにかかった。

「だが待てよ。セメント樽から箱が出るって法はねえぞ」
 彼は小箱を拾って、腹かけの丼の中へ投り込んだ。箱は輕かった。
「輕い處を見ると、金も入っていねえやうだな」
 彼は、考へる間もなく次の樽を空け、次の桝を量らねばならなかった。

 ミキサーはやがて空廻りを始めた。コンクリがすんで終業時間になった。
 彼は、ミキサーに引いてあるゴムホースの水で、一と先づ顔や手を洗った。そして辨當箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食ふことを專門に考へながら、彼の長屋へ帰って行った。發電所は八分通り出氣上ってゐた。夕暗に聳える恵那山は眞っ白に雪を被ってゐた。汗ばんだ體は、急に凍えるやうに冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えてゐた。

「チヱッ! やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている子供のことや、又此寒さを目がけて産れる子供のことや、滅茶苦茶に産む嬶の事を考へると、全くがっかりしてしまった。

「一圓九十銭の日當の中から、日に、五十銭の米を二升食はれて、九十銭で着たり、住んだり、箆棒奴! どうして飲めるんだい!」
 が、フト彼は丼の中にある小箱の事を思ひ出した。彼は箱についてるセメントを、ズボンの尻でこすった。

 箱には何にも書いてなかった。そのくせ、頑丈に釘づけしてあった。
「思わせ振りしやがらあ、釘づけなんぞにしやがって」
 彼は石の上へ箱を打っ付けた。が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす氣になって、自棄に踏みつけた。
 彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た。それにはかう書いてあった。

 ――私はNセメント會社の、セメント袋を縫ふ女工です。私の戀人は破砕器(クラッシャー)へ石を入れることを仕事にしてゐました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。
 仲間の人たちは、助け出さうとしましたけれど、水の中へ溺れるやうに、石の下へ私の戀人は沈んで行きました。そして、石と戀人の體とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鐵の弾丸と一緒になって、細く細く、はげしい音に呪の声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなりました。
 骨も、肉も、魂も、粉々になりました。私の戀人の一切はセメントになってしまいました。殘ったものはこの仕事着のボロ許りです。私は戀人を入れる袋を縫ってゐます。
 私の戀人はセメントになりました。私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。
 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい。

 此樽(たる)の中のセメントは何に使はれましたでしょうか、私はそれが知りたう御座います。
 私の戀人は幾樽(たる)のセメントになったでせうか、そしてどんなに方々へ使はれるのでせうか。あなたは佐官屋さんですか、それとも建築屋さんですか。
 私は私の戀人が、劇場の廊下になったり、大きな邸宅の塀になったりするのを見るに忍びません。ですけれどそれをどうして私に止めることができませう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな處に使はないで下さい。
 いいえ、ようございます、どんな處にでも使って下さい。私の戀人は、どんな處に埋められても、その處々によってきっといい事をします。構ひませんわ、あの人は氣象の確かりした人ですから、きっとそれ相當な働きをしますわ。
 あの人は優しい、いい人でしたわ。そして確かりした男らしい人でしたわ。未だ若うございました。二十六になった許りでした。あの人はどんなに私を可愛がって呉れたか知れませんでした。それだのに、私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せてゐるのですわ! あの人は棺に入らないで回轉窯の中へ入ってしまひましたわ。
 私はどうして、あの人を送って行きませう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られてゐるのですもの。
 あなたが、若し労働者だったら、私にお返事下さいね。その代り、私の戀人の着てゐた仕事着の裂を、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがさうなのですよ。この裂には石の粉と、あの人の汗とが浸み込んでゐるのですよ。あの人が、この裂の仕事着で、どんなに固く私を抱いて呉れたことでせう。
 お願ひですからね。此セメントを使った月日と、それから委しい所書と、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかったら、是非々々お知らせ下さいね。あなたも御用心なさいませ。さやうなら。

 松戸與三は、湧きかへるやうな、子供たちの騒ぎを身の廻りに覺えた。
 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻あった。
「へべれけに酔っ払ひてえなあ。さうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。
「へべれけになって暴れられて堪るもんですか、子供たちをだうします」
 細君がさう云った。
 彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。

2010年07月17日

江戸の狂歌師 鈍々亭和樽 またの名を祭和樽

he13_02946_0180_p0001.jpg早稲田大学図書館蔵

鈍々亭和樽(どんどんてい・わたる)又の名を祭和樽(まつり・わたる)
江戸神田の髪結職にして、狂歌師、戯作者。
生年不詳、文政五年(1922年)死去

%E5%92%8C%E6%A8%BD.jpg「福神金大帳」の一部に登場する大桶(おけ)

翌年文政六年に蜀山人も75才で死去。辞世の歌に
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「ほととぎす鳴きつるかた(片)身 初がつお春と夏との入相の鐘」などなど
墓は小石川の本念寺(東京都文京区白山4丁目34−7)

2010年08月18日

南宋の樽(たる)

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浙江省杭州市孩兒巷98號清代古宅的陸游紀念館に於いて


未尊
恨中
飄酒
零満
過身
此彊

尊中 酒満ち 身彊健ならば 
未だ恨まず 飄零して此の生を過ごすを
(枯骨閑人訳)

南宋詩人「陸游」の「成都書事」より

ここにある「尊」は「樽」と同義ですが、
この場合の「樽」ば、壷状の物を指し、また、時に酒そのものを意味する事もあります。

   陸游(1125-1210),字務觀,號放翁,南宋山陰人。12歲即能詩文,
   一生著述豐富,有《劍南詩稿》、《渭南文集》等數十種存世。陸
   游具有多方面文學才能,尤以詩的成就為最。自言“六十年間萬首 
   詩”,今尚存九千三百余首。其中許多詩篇抒寫了抗金殺敵的豪情
   和對敵人、賣國賊的仇恨,風格雄奇奔放,沉鬱悲壯,洋溢著強烈
   的愛國主義激情,在思想上、藝術上取得了卓越成就,在生前即有
   “小李白”之稱,不僅成為南宋一代詩壇領袖,而且在中國文學史
   上享有崇高地位,是我國偉大的愛國詩人。

 

2010年08月25日

樽(たる)や樽丸(たるまる)が表紙に出ている本

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明治17年に発行された写真の通りの長い題の「案内書」です。
この中に往事の「樽屋竹十」が見開きで所収されていたので、ご案内したことがあります。

この垣貫與祐とういう人が何者であったのかは住所が大阪市曾根崎新地であった事以外、
詳らかではありませんが、
他に同時期に「豪商神兵 湊の魁」「商工技芸 浪華之魁 東西南北(垣貫一右衛門編)」を編集出版しています。
神戸相生町と大阪高麗橋の熊谷久榮堂(代表 熊谷 幸介)が売捌所になっています。
生見堂に関しては大阪である事以外未詳。

各地の店から宣伝料を取り、代金の多い店ほど大きく銅版画入で紹介した、
今の住宅地図の様な商業出版で、大きく紹介されているからと言って必ず大店とは限りませんし、出ていないからといって老舗でないとは限りません。

画像は正確には表紙ではなく、書物の袋です。当時の袋は殆どが捨てられてしまうので、
残っていることは稀です。
まして、この種の書物は観光ガイドブックとしても利用されたので、必ず傷んでいます。

図の下の方に樽丸(たるまる)、酒樽(さかだる)、桶(おけ)などが見え、
当時の神戸では、これらが地場産業であった事が偲ばれます。

2010年10月21日

酒樽屋の恩人 生田耕作氏の命日「鴨東忌」

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生田耕作氏五十三歳の誕生日に、
御自宅から西へ歩き,川の畔にて撮影。背景は六甲山

この頃、若き頃の樽屋の親方は同氏宅の近くに住んでいたので、
御影の御自宅や、御影市場の魚を覗きながら市場を通り抜けてサバト館編集室におしかけたり、のちに夫人となられる広政かをる氏や木水弥三郎氏と小料理屋「からさき」(現存せず)にご一緒したものでした。
近所の散策のお伴をしたり、フランス文学だけではなく、英米文学、
更に日本の近代文学から江戸漢詩に到るまで、お二人の仲睦ましい神戸時代に、
邪魔を承知でおしかけて、勝手弟子していた頃に学んだ事ごとが、
今では酒樽屋の親方の骨幹になっていて、忘れられない思い出になっております。
余った酒樽(さかだる)に蔵元から貰った酒を詰めて、何度かサバト館まで届けたりもいたしました。

この頃、神戸サバト館から多くの名著が上梓されました。
「初稿 眼球譚」(山本六三挿絵)「日夏訳サロメ」.........................................

2012年01月15日

酒樽屋の新しい手帳

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小正月です。酒樽屋の手帳も新しいものに替わっております。
去年はカナダのPaperblanksでしたが、今年はフィレンツェノートことCIAKを選びました。

手帳は慣れた物を毎年使うべきだという事は判っているのですが、
一年間持ち続ける物ですし、ついつい珍しいものを見つけると手を出してしまいます。

新しいフォーマットの手帳に慣れるまで数日かかりました。
殊にCIAKは来年版まで日本語表記がないのと文字が小さくてインクが薄いので、
年齢を選ぶかもしれません。
赤黒は単なるノートと間違って買ってしまったので、仕方なくダイアリーを探しに行ったら白黒も良かったので、二種ある訳です。
実はPaperblanksは昨年、アフガニスタン絨毯支援に協力した関係で別に未使用が2冊もあるのです。
どなたか必要ありませんか。
いくら良い物でも今年の手帳を何冊も持っていても仕方ありませんからね。


2012年05月03日

職人尽絵に見る桶師と竹屋

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さまざまな「職人尽繪」が残されていて、その中に樽屋(たるや)も出て来ます。

上の画像は伝土佐光起による「職人合せ」計二十四枚屏風の一部で、
川越市喜多院に所蔵のものです。
表題は「樽屋圖」ではなく、「畳師圖」でした。
圖の上の方で作業しているのが畳屋さんでしょう。
下の方で作業しているのは「桶師」であって、
「樽屋(たるや)」ではなく、未だ樽屋と桶屋の区別が出来ていない時代です。
但し、この頃すでに竹屋と桶屋が分業されている事が判ります。

2013年08月21日

酒樽屋へ飛んできた「赤とんぼ」

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レイコ・クルックの新刊「赤とんぼ」がようやく樽屋にも届きました。(長崎文献社)
著者を駅まで迎えに行き、樽屋に着く前に彼女を待ち受けていたのは「アルルの女」でした。
そして「赤とんぼ」とは夕焼け小焼けではなく、海軍九三式中間練習機{KY5Y1}の事なのです。そして長崎に原爆投下。この重大な子供の頃の記憶を当時の目線で淡々と記述しているところが、むしろ怖い。まさに「小さか村」の「小さか生き証人」が書いた貴重な一冊です。

神戸では「海文堂書店」に大量入荷中

 トークショーが神戸であります。
 2013年8月24日(土)16:00〜18〜00
 会場 フォアベルクホール  078−221−8800
    神戸市中央区磯辺通4−2−14フォアベルク日本 神戸ショール–ム地下
    kobeshowroom@vorwerk.co.jp
定員100名の小さな会場なので御予約下さい。

   

兵庫県立美術館で「ルノワール展」がひらかれていたのです。
彼女にとっての「アルルの女」はビゼーの曲の方です。

2013年11月20日

灘五郷の和樽屋(わだるや)と民俗学者宮本常一

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たいそう珍しい雑誌(冊子)です。長年探しもとめていてようやく見つけました。
実は絶対に手に入らないだろうと半ば諦めていたのです。
いはゆる稀覯本と呼ばれている非常に高価な書物の場合は金額さえ気にしなければ入手し易いものですが、むしろ、このような50頁前後の不人気雑誌で売価も数百円(あるいは数十円)となると逆に探し難いものなのです。
他の方々にとっては価値はないでしょうが、和樽(たる)屋のとっては必須書です。
宮本常一氏監修の近畿日本ツーリスト昭和62年12月発行「あるくみるきく」250号という冊子です。
表紙の桶師は岩城好一さん、右側の軒先に隠れて顔を少し出して指導しているのが、同じく常峰巌さん(私の師匠なのですが40代で逝去),本文中に桶仙の名川隆義さん(宣言通り60代半ばに引退)、竹屋の松下栄二郎さん、そして阪神大震災のため死去、廃業を余儀なくされた元兵庫県和樽工業組合理事長、庄伊右衞門さん経営の庄製樽所と、同所職人の木村さん親子(共に廃業)、樽丸師だった吉野の栗山晴昇さん(引退して40代の大口孝次さんが後継)らが登場して、まことに身近な文献です。
40年程前のこの雑誌。当然ながら写真を見るとみんな若い。
灘五郷が日本一の酒どころの矜持を持って一番活気があった好い時期です。
唯一今も現役でたるや竹十の竹を割ってくれている竹屋の松下さんが未だ20代だった頃。

ありがたい事にこの冊子は後年「農文協」から御長男の宮本千晴さんと弟子筋の尽力により「「あるくみるきく双書第8巻、近畿2」別名「宮本常一とあるいた昭和の日本」として、昭和59年発行の「吉野の木霊」なども一緒に再録されて単行本になっていて便利です。全25巻ですが、300冊近い月刊誌を網羅することは出来ませんでした。
農文協版との違いは原本では色刷り頁が多い事と、野田の小川浩さんが取材した千葉の樽事情が割愛されている点です。

「昭和と言う世は、百姓がサラリーマンになり、大工が役人になり,商店の息子が絵かきになる世の中だ。みんな思い思いに思い思いのことをする。親のあとを子がついでいくというようなことはすくなくなった。ではいったい誰があとをつぐのだ。その思い思いの行動が伝統をたちきっていく。一つの文化は一〇年や二〇年では築けない。二台や三代もかかるものだ。自分でできなかった仕事は誰に完成してもらえばよいのか。自分だけではできないことをさらにうけついでさらに発展させていく人(仲間)をつくらねばならぬ。」    歩く民俗学者、宮本常一


たるや 竹十

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